あ、断っておくがしばしば「パンク」とか「カルト」と同義に使われることがある「エッジが効いている」という表現だけど、おれはそういう意味では使わない。使いたくない。
エッジとは「境界」、彼方と此方の境目。「A」と「B」または「A」と「A’」の相違を顕在化する線もしくは点。本来平行線のはずの議論が交差し、出会わなかったかもしれない立場が交錯し、個人の論理と倫理と感情が衝突する場。
問題提議がはっきりとなされ、個人の意見/価値観が集中する、いわば力場みたいな状況を設定しそれに登場人物が直面する。それが明確にシーンとして立ち上がっている。そしてそれを説得力を持った手段で超克する、もしくはそれに敗北することで何らかの成長を遂げる。
そういった輪郭線がパキッと決まっている物語を、「エッジが効いている」と俺は評する。
で、本来ならここで具体例を引いて「この作品のここが凄い」とか「ここがダメ」とかそういうこと(ちなみに最近読んだ中だと宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』がそういう意味で傑作です)を書くのだろうけど今日はそうじゃなくて。
何の話かと言うと。
イギリスのEU離脱のニュースが面白くて。正直中学のころ「9.11」の映像を観たあのときの興奮に近いものがある。あれほどのヴィジュアル的なインパクトはないが、徐々に投票の趨勢が判明し、その結果に世界中が注視し一喜一憂し、ダイレクトに大きなうねりとなって局面が変動していく。
世界史の「ゲルマン人の大移動」のくだりが大好きなんだけど、あれと似たスペクタクルを感じるのだ。飛び火してスコットランドが英連邦の離脱・EU残留を目指す、なんと刺激的で史劇的な展開だ。
まあ要するに文字通り対岸の火事、だってことなんだろうけど。
そういう興味の視点だけで書くから、無責任だよ、という宣言が既に無責任なんだけど。
離脱・断絶、という結果よりもこれが国民投票によって得られた回答、という点について考えている。あるビッグ・イシューについて個々人がその立場を鮮明にして意見を表明するということ、その場が設定されること、それ自体が「断絶」なのではないか、と。
たぶん誰しも不満や憤り、そしてそれから発生する敵愾心や偏見は抱えていて、でもそれを現実に表出しようとも反映しようとも思っていない。そもそも、それは意見にできるほど形成されていない。もっと不定形で、曖昧な感情だ。だからこそ「それはそれ」として、上手くやっていける。
しかし、それが直接表明できる場が設定されたら。しかも、単純な二項対立の図式で選択を迫られたら。
それによって、結果の如何に関わらず対立が産まれるのではないか。今まで腹の底に抑えていたものが、「A」か「B」かまたは「A」か「A’」か、といった解りやすい形に剪定される。曖昧だった感情が二極化される。
境界(エッジ)によって断絶される。
そう考えると、民主主義的であるはずの「国民投票」自体が、断絶を顕在化させる装置になってしまっていないか、と思うのである。
だとしたら。
かと言って「声を上げること」「意見を反映させること」を手離すことはあり得ないし、とここでどうにも唸ってしまうのである。頭を捻ってしまうのである。
できることとしたら、境界の手前で引き返すこと。曖昧な感情を、曖昧なままにしておくこと。エッジを回避すること。「きわ」に行く前段階の、融和を目指すこと。
後ろ向きかも知れないが、今はそれくらいしか思いつかない。
で、現実の危機はこれくらいにして「物語」の話に戻るのだが、だとすれば良い意味で「エッジを効かせない」物語も面白いんじゃないかと思ってきたのである。
境界に行くか、というところで全力で回避する。というか、その回避自体が一種の境界として設定してある。
まあもちろん、それで物語として「ヌケる」のか、結局その境界が観られないなら不満だろ、という気はするのだが。だけど、現実にその回避が正解のひとつなのだとしたら、物語でもそれは取りうる方法のはずだ。
上田早夕里『華竜の宮』が実はそうだったのかもな、と思う。そしてとても面白かった。